Jacques de poils du Nez

クラシック音楽のレビューを書く練習

EAN:4560250641201

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Johannes Brahms: Violin Concerto in D major, op.77
Gerhard Hetzel (Vn.)
Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra / Akeo Watanabe
(Rec. 16 March 1988, Tokyo Bunkakaikan)

Wolfgang Amadeus Mozart: Violin Concerto No.5 in A Major, K219
Gerhard Hetzel (Vn.)
Yomiuri Nippon Symphony Orchestra / Heinz Rögner
(Rec. 14 March 1988 Suntory Hall, Tokyo)


ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms, 1833-1897)のヴァイオリン協奏曲と、ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)のヴァイオリン協奏曲No.5を、ゲルハルト・ヘッツェル(Gerhard Hetzel, 1940-1992)の独奏で聴く。伴奏は、ブラームスの方が渡邉暁雄(Akeo Watanabe, 1919-1990)の指揮する東京都交響楽団モーツァルトの方はハインツ・レーグナー(Heinz Rögner, 1929-2001)の指揮する読売日本交響楽団がそれぞれ受け持つ。1988年にヘッツェルが来日した時のライヴを収録したもので、両曲とも演奏終了後に拍手が入る。ブラームスの曲が3月16日の東京文化会館における演奏で、録音はデジタル方式。モーツァルトの曲は。ブラームスの録音の2日前のもので、東京のサントリー・ホールでの演奏でステレオ方式の収録となる。しかし、いずれも音質的には大差ない。

ヘッツェルは、旧ユーゴスラヴィア領のヴルパス出身のヴァイオリニスト。1964年から1968年までベルリン放送交響楽団コンサートマスターを務め、1969年にウィーン国立歌劇場管弦楽団にヘッドハントされた。そのままウィーン・フィルハーモニー管弦楽団コンサートマスターに採用され、「世界最高のコンサートマスター」と言われるほどの名声を得た。
ルドルフ・パウムガルトナーやウォルフガング・シュナイダーハンの下で修行していた頃から、ヘッツェルは師匠たちの創設したルツェルン祝祭弦楽合奏団に加わり、アンサンブルの経験を積んだり、独奏者としての腕を磨いたりしていた。1961年にはジュネーヴ国際音楽コンクールのヴァイオリン部門で3位入賞しており、その腕は折り紙付きだ。ただ、独奏者として立つよりは室内楽を好み、アンサンブルの調整役を得意とする人だったので、彼の名前が大書される録音はさほど多くない。その録音の少なさのせいで、彼の存在が忘れられていくことを危惧する人には、この録音は福音となるのだろう。

このCDで共演している指揮者も、ヘッツェルの共演相手として不足のない人たちである。ブラームスの作品で東京都交響楽団を指揮する渡邉は、東京生まれの指揮者で、日本フィルハーモニー管弦楽団創立者である。また彼の母親の祖国の代表的作曲家であったジャン・シベリウスの作品を積極的に紹介し、日本に於けるシベリウス受容の大立者でもあった。
モーツァルト作品で読売日本交響楽団を指揮するレーグナーも、ライプツィヒ出身のドイツの指揮者で、エゴン・ベルシェの門下。1958年にライプツィヒ放送交響楽団の指揮者陣に加わったあたりから頭角を現し、1962年からベルリン国立歌劇場の常任指揮者、1973年からベルリン放送交響楽団首席指揮者などを歴任して旧東ドイツを代表する指揮者の一人に数えられるようになった。この録音が行われた頃は、読売日本交響楽団の首席指揮者を務めていた。

収録された演奏について、ヘッツェルの独奏は、いずれの曲でも独奏者であることを忘れてコンサートマスターの席に座ってしまうのではないかと思うほどにオーケストラと同化しやすい。往年のヴァイオリンの名手たちのように「我こそは!」と名乗りを上げるような押し出しに乏しい。しかし、重音奏法もきれいで、目の細かいパッセージでも型崩れしない技巧の確かさはある。カデンツァは両作品ともヨアヒムの作で統一している様子ではあるが、これ見よがしな動きの少ないすっきりとした奏楽はお見事。我が強ければ天下一の独奏者に成れたわけだ。
ブラームスの作品は、渡邉の指揮によるオーケストラの高雅なサウンドが素晴らしい。それに寄り添おうとするヘッツェルの存在が、オーケストラに純度のより一層高いサウンドを鳴らすモチベーションを与えているのかもしれない。これに力強さが加わればよいのだが、その力強さのためには、独奏の哲学的逡巡を思わせる所作も大事だろう。ヘッツェルは均整美を重んじるあまり、オーケストラと共同して大柄な音楽を奏でるところに結びつかなかった。もっとも、弁証法的高みを目指すのではなく、融和的で穏やかな音楽の展開を求める向きには、ブラームスのこの曲でそんな気分にずっと浸れる喜びをかみしめることが出来るだろう。
モーツァルト作品の演奏は、レーグナーがまろやかな響きを引き出しつつ、シャキッとしたテンポ感覚で音楽全体を引き締めているのが良い。ブラームスの音楽のような気宇雄大さは必要ないので、こちらのほうがヘッツェルも楽しそう。もっとも、ジャック・ティボーのような弾いているんだかレディーを口説いてるんだかわからないような演奏ではなく、真っ当な楷書体。しかし、ヘンリク・シェリングがフィリップス・レーベルほどに楷書であることを強調しない自然さがある。